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カーテンの隙間から差し込む朝5時の光。カラッと晴れた日の紙の匂い。テレビを見ながらすするカップラーメン。誰もいない街のイルミネーション。マジックアワーの東京と人々。誰かと一緒に見た空の色。 今年も人が死んだ。数え切れないほどの。 人は死ぬと、…

とある夢の話

ふと、冷たい風が首もとを優しく撫でました。 秋の夜長にピアノの調律を流しながら、あなたのことを想いました。ふかふかの白いベッドが、雲のように私を包みながら、7%のアルコールに揺られて、月明かりの微睡みから夢の中へと誘われました。無臭の夢の中で…

Abandon all hope

大好きな人と会う直前に、交通事故で死ぬことがある。夢に向かって生きている途中に、病気で死ぬことがある。そんな世界で、僕たちは生きている。そんな世界でも、僕たちは生き続けている。明日死ぬ可能性は、僕にも、あなたにもある。その中で、どうしても…

鴉の詩

ふと思った。誰もが羨むようなこの上ない幸福を経験した者もいれば、一生を不幸な環境の中で終えた者もいる。ああ、これが世界なんだとしたら、僕はこの世界にはいたくない。確かにそう思うのにこの世界に居続けるのは、まだ存在するかもしれない至上の幸福…

性愛

僕は彼女のことが好きではなかった。ただ彼女の身体が好きだった。芸術のような顔と体の比率、全てを飲み込んでしまいそうな大きな瞳、この世の幸福を詰めたような髪の匂い、抱きしめると泡のように消えてなくなりそうな華奢な胴、雪のような手足。触れてい…

ミモザ

あの味を、まだ覚えている。 ほんの少し肌寒さを感じるような時季に、田舎の海辺にある良さげな旅館に泊まったのを覚えている。職を失い、収入が無になり、先が見えず、現実が不気味に白かったその時季。1泊2日で行こうと、本当に突然と思いついて、泊まる当…

新宿と雨

午後6時、豪雨の新宿に、ギターを担いだ彼女は傘をさして立っていた。都会の光が雨に白んで幻想的な景色を生み出すなか、何という目的もなく、彼女はただそこにいる人間たちの有様を眺めていた。 限りなく行き交う人々、都会の喧騒、コンクリートを踏む音、…

沈む夏

ねえ、あなたは今、どこで何をしているの。 嘔吐くような夏の気配がまた押し寄せているんだ。いつまで経っても沈まない夕陽が、あまりに残酷で、こわくて、地球ごと僕を飲み込んでしまいそうだよ。 ベランダで一人、線香花火。 世界中の香水やアロマを探して…

雪那

今日も薬を飲んだ。自分で自分の世話をするのに精一杯だ。毎日連絡を取る相手はいない。毎日も話すことがないからだ。それでも連絡手段はいつまでもあって、"友だち"一覧からその名前は消えない。アイコンが私に微笑んでいる。本当に微笑んでいる相手は私で…

独白

友達はいる。親友と呼べる人も何人かはいる。孤独じゃなかった。そう確信していた。でもそう思い込んでいただけだった。孤独じゃない振りをしていた。本当は孤独だった。嘘と虚栄で塗り固めた人生は、僕と世界との間に壁を作った。ずっと独りで生きてきた。…

真夜中の観覧車

宇宙一きれいな冬の夜空と海面の静寂が合わさった時、その観覧車は現れる。近くに行けば真上を見上げるほどの大きさで、一晩かけて一周する。真夜中にしか動かない、大きな大きな観覧車。それにあなたと二人で乗ろう。一晩かけて、一生分の話をしよう。 ゆっ…

締めつけるような寒さの中、僕は何を思いリュックを背負って歩いているのだろう。 2021年も今日で最後だ。毎年この日、人々はその1年のことを振り返る。変わったことと変わらないこと。新しく出会った人と別れた人。なぜ人は今日という日に過去1年間を振り返…

おわりのはじまり

一年が終わりに近づくにつれ、無性に人に会いたくなる。テレビ番組も街中も年末モードで賑やかになっているせいだろうか。街の灯りひとつに、ひとつの幸せがあることを最も感じる時期だからだろうか。それとも、今年も独りのまま終わらせたくないからだろう…

季譚

四季は、それぞれ違った匂いがする。そのどれもが好きで、季節の移り変わりにふと風の匂いが変わったのに気づくと、毎年新鮮で凄く嬉しい気持ちになる。そしてその度に、どこか遠くを見つめるあなたの横顔を思い出す。 春の包み込まれるような暖かさとぬるい…

23億回

今日も人は、人の間で生きている。誰かが人を褒めている間に、誰かが人の悪口を言っている。誰かが言い訳をしている間に、誰かが本当の気持ちを伝えている。誰かが死に物狂いで働いてる間に、誰かが一日中ゲームをしている。今日も人は、人の間で生きている…

蒼穹

僕がもう死にたいと思った時、必死になって生きる理由を見つけることがある。それがたとえどんなに下らないことであろうとも、僕にとってそれは、小学生にとっての夏休みのような、大地にとっての雨のような、輝きと潤いを与えてくれる大事なことだった。あ…

燃胞

この文章を書くとしたら、きっと真夜中だろう。久しぶりに、希死念慮がやってきた。突然出てきたのではなく、必死になって押さえ込んでいるだけで常に僕の心の表面で眠っているこの思いが、目を覚ましただけだった。機械が初めて心を持った時のような、希望…

手癖

今この世界に存在する言葉だけで僕の本当の考えが伝わるのなら、どうかその方法を教えてくれ。 路上で歌う若い男の横を通り過ぎ、ポツポツと光る都会の灯、閉まるスターバックス、残業終わりらしき沢山のスーツたちに囲まれ、無味乾燥な電車に揺られ、でかい…

山荷葉

僕が人のために泣いたのは、君が初めてだった。 結局眠れなくて、パソコンを触っていたら朝五時になっていた。小鳥が街に一日の始まりを教え、淡い碧がカーテンの隙間から顔を覗かせる。また、時間を無駄にしてしまった。まあ、いいか。僕の時間にはそんなに…

椿にナイフ

何も上手くいかなかった日の帰り道、とある若者の集団の大きな笑い声を聞いて、ふと、全ての人間が無理になった。 人間は、身体も、精神も、脆い。宇宙上最悪の肉体で、宇宙上最弱の精神で、僕たちは生まれてしまった。まだ世界の何も知らない頃、僕たちは皆…

瑪瑙

冬の雨は、寒くて、痛くて、誰の身体にも纒わりつかない、冷淡で孤独なものだった。 今、私は、誰にも見られることがないこの文章を書いている。社会のルールとか、身に付けておくべき常識とか、他人を軸にした価値観も、他人によく見られようとして習得した…

事象の地平面

僕たちは、誰のせいにもできないことを、日々誰かのせいにしながら生きている。それは過去も現在も未来でも、僕たちが人間である限り在り続ける業なのだろう。そんな矛盾を抱えながら、僕は今日も、誰かのために生きている。 2001年、まだ僕が僕ではないとき…

ひとつまみの声

ああ、これは今書いとかないといけないな、と思った。 言葉は人間と同じだから、ちょっと気を逸らしただけでどこかに去ってしまう。言葉は人間と同じだから、大切に扱う必要がある。言葉は宝物だから、どこかに仕舞う必要がある。だから、言葉を伝える空気の…

tone code

人がいるから音が存在するのか 人がいなくても音は存在するのか これは物理的な話ではなく 哲学的な話でもない ただ、僕の話 人が作った音より 自然の音のほうが好きだ なぜなら人が作った音には 感情が存在する それは僕の感情でもあるし 作者の感情でもあ…

猫をなでるたび、思うことがある。猫をなでることで幸せになるのは、猫なのか、人間なのか。なあ猫よ、教えてくれ。なぜ人は人を苦しめるのか。なぜ人は人を想うのか。なぜ人は独りになったときに誰も助けてくれないのか。なぜそんな世界でも幸福が存在して…

記憶を匂う

僕の部屋には、いつも匂いがなかった。 23時、窓とカーテンを閉め切った薄暗い部屋で味のないカフェオレを飲んでいた。蜘蛛の巣のように纏わりつく湿気を全身に感じながら、僕はただベッドで横になる。いつしか僕も、常に味を感じられる時があったのだろうか…

本とチョコレート

歳をとるたび、消したい過去も多くなっていった。 寒い、寒い。と何度吐き捨てても、気温は上がるはずもなく、僕の醜い過去は変わるはずもなく、時間は止まるはずもなく。窓から射し込む眩い朝陽とひんやりした澄んだ空気と高く蒼い空に囲まれ、チョコレート…

誰にも知られることのない話

なぜいつも、同じ時期なのか分からない。 消えてなくなってしまいたい。嫌というほど鮮烈に、強烈にそう思うことがある。理由は、ある。「はっきり」している。気持ち悪いほど確かに。 自分は必要ではないから。 ただそれだけ。それ以上でもそれ以下でもない…

透明な自傷

嗅覚を司る脳の部位は、記憶を司る脳の部位と近い場所にある、らしい。 蝉が鳴き止んだ。 9月の後半から10月にかけての空気の色は、匂いは、僕の頭部を壁へと打ちつける。 (今まで何度同じ失敗をした?) (今まで何度同じ過ちを犯した?) 僕の頭部は思ったよ…

手をつないでキスをする

4月の空気が好きだ。温かく優しいベールのような空気が身体を包んで、心地よい気持ちになる。 春の由比ヶ浜を歩くたび、僕は彼女のことを思い出す。まるで春の空気のように人を優しく包み込んでくれる存在だった。人の悪口もめったに言わない人、少なくとも…