山荷葉

僕が人のために泣いたのは、君が初めてだった。

結局眠れなくて、パソコンを触っていたら朝五時になっていた。小鳥が街に一日の始まりを教え、淡い碧がカーテンの隙間から顔を覗かせる。また、時間を無駄にしてしまった。まあ、いいか。僕の時間にはそんなに価値がないから。あ、こんなことを言うとまた君に怒られるかな。君は仏のような考え方をしていたよね。それは僕に対してだけじゃなくて、誰に対しても。それが僕にはちょっと寂しかったりはしたけど、そんな優しい君が僕は好きだった。君の一秒は、僕の一秒の何千倍も価値があるんだよ。そんなことを言っても君はいつも、人に流れる時間の価値はみんな同じだよと返してくる。 でもね、この世の中はそんな綺麗事だけじゃ成り立たないんだ。それを一番よく分かっているのは、君のはずなのに。

君はよく笑っていたよね。それは決して無理して笑っているんじゃなくて、本当に心から笑っていたと思う。大して面白いことも言えないし、楽しいこともできない僕だけど、君は僕と一緒にいるだけでつい笑顔になると言っていた。それを聞いた僕は嬉しさを感じるより先に、なんだか感心しちゃったな。たぶん、僕の笑顔の99%は作り笑いで、自分でもいつ本気で、心の底から笑ったのか覚えていないくらいだったのに、君の笑顔は100%が本物で、でも君は本当に笑える時しか笑わなくて、それはきっと僕の前だけであって欲しいと願うほどに、僕は君を手放せなくなっていった。もう君には聞こえてないよな、僕の面白くない話も、僕の楽しくない言動も、僕がここにいる音も、もう、何も聞こえてないよな。

せめて最後の一瞬だけでも、自分を犠牲にしたかった。

誰にも言えないような不幸を抱えて生きてきた彼女を、それでも僕を笑かそうとしてきた彼女を、ねえ神様、僕に託していた理由は何ですか。彼女の努力に気づいて、何もできない自分に気づいて、自分から離れていくような僕に、彼女を幸せにするという使命を与えたのは何故ですか。お願いです、自分の幸せよりも他人の幸せを優先させてきた彼女を、どうか世界が見捨てませんように。もしも彼女が泣いてしまったら、透明になってあらゆる不幸から逃れられますように。涙で溢れた彼女を見たくないから、僕にも見えないように透明になりますように。

ああ、また自分勝手だな。僕は何を言っているんだろう。

涙で溢れて、僕は透明になった。