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カーテンの隙間から差し込む朝5時の光。カラッと晴れた日の紙の匂い。テレビを見ながらすするカップラーメン。誰もいない街のイルミネーション。マジックアワーの東京と人々。誰かと一緒に見た空の色。

今年も人が死んだ。数え切れないほどの。

人は死ぬと、その人の考え、価値観、記憶、意識が消える。それは一つの"世界"が失くなるのと同じ。そうして失くなった"世界"はやがて生きている人々にも忘れ去られ、二度目の消失を迎える。忘れるとは、この世で最も残酷なこと。

「絶対行こうね、一緒に」

ふとあの人の言葉を思い出した。あの約束、まだ覚えていますか。それとも覚えているのは、私だけですか。茫漠の砂漠に取り残された約束の亡骸が、私から涙を奪っていく。それでも私は、その亡骸を腕に抱えだきしめるのです。ずっと、ずっと、この身が朽ち果てようとも。

とある夢の話

ふと、冷たい風が首もとを優しく撫でました。

秋の夜長にピアノの調律を流しながら、あなたのことを想いました。ふかふかの白いベッドが、雲のように私を包みながら、7%のアルコールに揺られて、月明かりの微睡みから夢の中へと誘われました。無臭の夢の中であなたは、薄い光となり存在しながら、尚もあなたの形を保ちながら、私に抱かれるのです。眩い光に包まれて、羊水の中にいるかのようなぬくもりを感じながら、私たちは安心していられるのです。外では学校帰りの小学生たちが、縁石の上を渡りながら、はしゃぎあうのです。ここは幸福の世界。何も案ずることはないのです。

何もしなくていい、何もしなくていいから、眠れない夜に一緒にいてほしいのです。気を抜いたら死んでしまいそうなので、どうか手を離さないでほしいのです。たとえあなたのすべてが嘘でも、私と一緒にいてくれたらそれでいいのです。

目が覚めて、太陽が地平線に位置するその瞬間に、月は私から隠れてしまうのです。

Abandon all hope

大好きな人と会う直前に、交通事故で死ぬことがある。夢に向かって生きている途中に、病気で死ぬことがある。そんな世界で、僕たちは生きている。そんな世界でも、僕たちは生き続けている。明日死ぬ可能性は、僕にも、あなたにもある。その中で、どうしても聞いてほしいことがある。

死にたいと思ったことが何度もある。死んだ先に僕がずっと求めていた人がいるかもしれないと何度思ったことか。僕が求めている人、僕が求めている世界は、死んだ先にある。そう本気で信じていたし、今でも信じている。なのに、なんで生き続けている?死ぬのが怖いから?痛いのが嫌だから?自死の訃報を目にするたび、この世界に希望はないんだな、と思う。生きていればどうにでもなると人は言うが、そんなことはない。生きていても、どうにもならないことは沢山ある。自分が願ったことはたいてい叶わない。理想には近づけない。人間の生活のあいだに、あまりにも差がありすぎる。ここは、そういう世界。それなのに、僕も、あなたも、なぜ生きている?

例えば明日世界が終わるとしよう。そうすると不思議なことに、上記の絶望は一気に無くなる。死のうとしていた人も、どうせ明日死ぬのだからと自死をやめるかもしれない。どうにもならなかったことも関係ない。夢が叶わなかったことも関係ない。貧富や幸不幸の差なんか関係ない。どうせ明日全てが無くなるのだから。じゃあ最後の一日、何をする?好きなものを腹いっぱい食べる?犯罪を犯してみる?そうこう考えているうちに世界が終わる3秒前、あなたは何を思う?

初めに言ったように、明日死ぬ可能性は誰にでもある。夢も、希望も、全てが無に帰す可能性があるこの世界で、どうか僕の願いを、聞いてほしい。

僕は大金持ちになりたいわけではない。長生きしたいわけでもない。家庭を築きたいわけでもない。親友がほしいわけでも、恋人がほしいわけでもない。同じ空を見て、綺麗だねと言い合える人、秋の風を一緒に感じてくれる人、海を見て、僕と同じ感情を抱く人、僕と同じように、過去を捨てたい人、そして、お互いの全てを許せる人。そんな人と出逢いたい。そして、この世界に存在するかもしれないその人のために、生きたい。とにかく、少なくともその人と出逢うまで僕は生き続けなければならない。もしあなたにそういう人がいるのなら、その人のために、生きてみるといい。僕は、自分のためではなく、その人のために生きたい。

だから、どうにもならなかったことも、消え去った一切の希望も、全部背負って地獄の果まで生きてやる。そして死ぬ直前に、たとえ隣に誰もいなかったとしても、それが僕の人生の答えなのだと、納得して死んでゆくだろう。つまりは、ここはそういう世界。

そんなことを考えているうちに、夏が終わり秋の気配を感じられるようになった。いつの間にか夏の草いきれを感じなくなり、夕暮れ時に涼しい風が頬を撫でる。"その人"も同じことを考えているのだろうか。

「この世界に神様はいない。それでも、もうちょっと、生きてみようかな」

鴉の詩

ふと思った。誰もが羨むようなこの上ない幸福を経験した者もいれば、一生を不幸な環境の中で終えた者もいる。ああ、これが世界なんだとしたら、僕はこの世界にはいたくない。確かにそう思うのにこの世界に居続けるのは、まだ存在するかもしれない至上の幸福が起こることを密かに願っているという傲慢なのだろうか。

ふと思った。結局人は誰も他人のことなんか気にしていない。他人の幸福を文字通り自分の幸福のように感じられるというのはただの綺麗事で、そんなことができる人はどこにもいない。それでも僕は、君だけに関しては、そんなことができる人になりたかった。これもただの、傲慢なのだろうか。

大切な人を想う言葉は何万回も言われてきた。大切な人を失う悲しみも何万人が唄ってきた。でも、僕が君を想うことも、僕が君を失う悲しみも、人類史上これが初めてなんだ────なんてこと、言えるくらいお気楽な頭で生きたかったな。どっかの誰かさんがロックで歌う二人だけの愛とかいうやつを、感じられるような人生でありたかったな。実際は、夏の匂いも、あの時の声も、死にたいと思う君も、僕の心をずたずたにするだけ。言葉は、どう足掻いても人間の感情を模倣できない。神様、ならばせめて、どこからでも彼女に届く音波を僕に授けてください。

早朝の静寂の中、響く鴉の鳴き声。

性愛

僕は彼女のことが好きではなかった。ただ彼女の身体が好きだった。芸術のような顔と体の比率、全てを飲み込んでしまいそうな大きな瞳、この世の幸福を詰めたような髪の匂い、抱きしめると泡のように消えてなくなりそうな華奢な胴、雪のような手足。触れているだけで、僕の全身は満たされていた。それでも僕は、彼女のことはこれっぽっちも好きではなかった。夜10時の新宿歌舞伎町。僕はその身体を求め、今日も彼女に会いにいく。彼女は僕に気づくなりすぐに笑顔になった。その笑顔を見るたび、僕はどうしようもない気持ちに襲われる。ホテルの部屋までの道のりで繋いでいた手に、愛なんてなかった。途中、彼女がコンビニに寄ってお酒と一緒にスイーツを買った。もし僕が彼女のことを心から愛していたなら、こういうところも愛おしいと思ったのだろうか。

行為中、彼女は時々泣いていた。その涙の理由を僕は知っていた。自分が相手に愛されない哀しみの涙でも、自分が性処理の道具として扱われている怒りの涙でもなかった。それは二人にしか知り得ない、永遠に一体化することができないというこころの痛みの涙だった。それでもクズになり切れない僕は、また彼女の涙を拭う。そうして終わったあとのラブホテルの匂いは、早朝の新宿の匂いとともに冷たい悲しみを背負っていた。永遠にさようならと言えない僕の、昔からの弱さが胸を刺した。

 

 

私は彼のことが好きだった。寝落ち通話越しの穏やかな声、私の頭をなでるときの柔らかい笑顔、タバコを吸うかっこいい横顔、寝起きの子猫のような甘い声、私の好きなものを買っておいてくれる優しさ。でも、彼が私のことを好きじゃないことは知っていた。夜10時前の新宿歌舞伎町。それでも私は彼に少しでも喜んでもらいたいから、今日も待ち合わせ場所に少し早く着く。待ち合わせ場所で見た彼の笑顔は今日も好きだった。この顔を一生独り占めしたいと願うほどに、私の笑顔はどんどん消えてゆくのだ。ホテルの部屋までの道のりで繋いでいた手が何よりの幸せだった。と同時に、何よりも淋しかった。手をつなぐだけで疼く自分の身体に腹が立った。途中、コンビニに寄ってスイーツを買った。彼の分も、買っておいた。

行為中も彼は優しかった。挿れる時に訊く「痛くない?」と言う声が好きだった。好きすぎたから、また少し、泣いてしまった。それでもどうしようもなくするすると嵌る私たちの身体が、かえって孤独の輪郭をはっきりと映すのだった。私たちの夜がまた、哀しく乱れた。終わったあとに彼がタバコに火をつける。彼が吸っていたのをもらったけど、やっぱり私にはまだ早かった。その瞬間のラブホテルの匂いが、ずっと頭の中に残っている。

もうお願いだから、私の身体以外でしないでほしい。

届かぬ願いは、早朝の新宿に溶けて消えていった。

ミモザ

あの味を、まだ覚えている。

ほんの少し肌寒さを感じるような時季に、田舎の海辺にある良さげな旅館に泊まったのを覚えている。職を失い、収入が無になり、先が見えず、現実が不気味に白かったその時季。1泊2日で行こうと、本当に突然と思いついて、泊まる当日の始発の電車に乗ると決めていた、そういう精神状態の時季。僕には時間が有り余るほどあった。そして空間も。物欲がなかった自分の今の貯金なら、国内であればどこにでも行ける。1泊2日ならちょっと贅沢な旅館にも泊まれる。そして僕は、まだ若い。全くの平日の、何のイベントもない、十一月の人が本当に少ない時に行こう。そう決めていた。

始発電車を待つ駅のホームは、暗くて、蒼白くて、寒かった。ホームの蛍光灯はスポットライトのように僕を照らして、僕はこのホームの舞台で主役になっていた。鈍い音をたてながらやって来た始発電車に乗り、長い長い鈍行列車の旅が始まった。車窓から外をぼんやり眺めると、ゆらゆら漂う浅い霧たちが街を薄く映していた。

まるで、まだ夢の中にいるような心地だった。

列車に人はほとんどおらず、僕のいる車両はほぼ貸切状態だ。僕は昔の君からの言葉を思い出していた。あなたと一緒にいると、あなたと一緒にいる自分まで好きになる。そう言った昔の君の笑顔はとても温かくて、でも気づいていたかな、君の周りにはいつも雪が降っていたんだよ。君はあの時も、今の僕と同じ寒さを感じていたのかな。

列車が走る音は単調だった。都会にいるスーツを着た人間たちのように、列車はただ決められた道を等速度で走っている。その単調な音に連れられて、僕はうたた寝をしてしまった。

目的地に着いた時には陽射しがすっかり清々しく輝いていた。僕は駅からほど近い海辺の方まで歩いた。風が強く波が音楽を作っていた。その波が朝日に照らされて海一面が宝石を散りばめたかのようにキラキラと光っていた。強く、でもどこか心地よい風に打たれながら朝の海辺を歩いていた。砂浜にはところどころ綺麗な貝殻が落ちており、記念に持ち帰ろうといちばん綺麗な貝殻を探した。君と海に行った時も貝殻を探すのが恒例だったよね。お互いに不思議な色や形をした貝殻を拾っては見せあって、我ながら子供じみたことをしているなあと思っていた。そして、この瞬間が永遠に続けばいいのになあとも思っていた。しばらく砂浜を歩いていたら、ひときわ目を引く貝殻があった。大きな二枚貝の片方で、白に近いベージュをした綺麗な形の貝殻だったが、一部分が欠けていた。近くにその欠片が落ちていたのでふたつを合わせてみた。それはかつて、君が僕に見せてくれた貝殻に似ていた。とても綺麗な貝殻を見つけたと言って嬉しそうにはしゃぐ君が一瞬、僕の前に現れたような気がした。僕は欠片と一緒にその貝殻をポケットにしまった。

一頻り海辺を歩いてから気が付いたが、砂浜の端のほうに小さな古民家風の喫茶店があった。頗る暇を持て余していた僕は迷わずそのお店に入った。中に入ると客は僕だけしかおらず、その空間だけ時間がいつもの半分の速さで進んでいるような気がした。メニューにはほんの数種類の飲み物と、北欧の絵本にでも出てきそうな優しい軽食しか載っておらず、今日のお店をやり繰りしているであろう丸眼鏡をかけた人のよさそうなおじいさんに僕は、ホットコーヒーを頼んだ。窓からは、海が一望できた。時刻は午前10時になろうとしていた。朝から何も食べていなかった僕は、追加でトーストを頼んだ。そうだ、僕は昔から小食だったな、と、何故か今になって思い返す。この特性を活かして、僕はみんながお腹がすく時間にもいつも通り活動できたし、みんなよりも食費を少なく抑えることができた。それが僕の人生において何だったのかと訊かれれば、別に何でもない、と思う。トーストにはバターがしっかりと染み込まれていて、余りのおいしさに目を細めてしまった。こんがりと焼き上がったトーストとコーヒーの匂いは、朝、僕の部屋で、寝ぼけた顔でトーストをほおばる君の姿を自然と思い出させる。ねえ、おいしいかな。生きてる実感が湧くのってどんな時だろう、そう君が言ったことがあったよね。言ったというか、呟いたのかな。きっと、この瞬間のことを言うんじゃないかな。そう僕が言うと、君は小さく笑った。

茶店には外国の絵本がたくさん置かれていた。適当に一冊手に取る。英語で書かれていたが、子ども向けの簡単な英語だったため僕でも読むことができた。

みにくいアヒルの子

そう書かれていた。小さい頃に読んだ気がするが、内容はもうすっかり忘れている。

────あるアヒルのお母さんが巣の中のタマゴをあたためていました。やがてタマゴが一つずつ割れると、中からは黄色のかわいいひなたちが顔を出します。ですが巣の中で一番大きなタマゴだけがなかなか生まれてきません。しばらくたって、やっとタマゴを割って出てきたのは、たいそう体の大きなみにくいひなでした。みにくいアヒルの子はどこへ行ってもいじめられるので、みんなの前から逃げ出して、人目のつかないところで眠る日々が続きました。やがて秋になり、みにくいアヒルの子はこれまで見たこともないような美しいものを目にしました。白鳥の群れでした。「あんな鳥になれたら、どんなに幸せだろう。いや、アヒルの仲間にさえ入れないのに、そんなことを考えてどうするんだ」

ここまで読んで一度本を閉じる。みにくいアヒルの子と自分を重ね合わせる。人と考え方が違う自分はどこへ行っても孤独を感じていた。僕にとっての白鳥は、未来の理想の自分だった。孤独とは縁のない、明るく輝いている自分だった。10年前に思い描いていたその白鳥は、今や孤独の中でみにくいままだった。

────やがて冬がきて、沼には氷が張りはじめました。アヒルの子はアシのしげみにじっとうずくまって、きびしい寒さをたえしのびました。そのうちに、お日さまはしだいにあたたかさをまし、ヒバリが美しい声で歌いはじめます。ついに、春がきたのです。アヒルの子は体がうきうきしはじめると、つばさをはばたいてみました。すると、体が浮くではありませんか。「ああ、ぼくは飛べるようになったんだ」アヒルの子は夢中ではばたくと、やがておほりにまいおりました。その時、おほりにいた白鳥たちがいっせいに近づいてきたのです。白鳥たちにいじめられると思ったアヒルの子でしたが、白鳥たちはやさしくくちばしでなでてくれました。白鳥の一羽が言いました。「はじめまして、かわいい新人さん」

そして、水面に映った自分の姿を見て、初めて自分が白鳥であることを知る。ずっと孤独だったアヒルの子のハッピーエンドに思わず微笑む。本を閉じて時計を見ると、チェックインの時刻が迫っていることに気がついた。会計をして喫茶店を出ると、潮風の匂いがいっせいに頬を撫でた。

泊まる予定の旅館は海辺とは反対側の坂を少し登ったところにあった。古い民家が建ち並ぶ細い路地を歩き続け、周囲の自然に溶け込んだ立派な旅館にたどり着いた。旅館の周囲だけ時代が遡ったように、それは古風で悠々としていた。入口で女将さんの丁寧なお出迎えを受けて僕は部屋まで案内された。綺麗な和室で、広縁の窓からは朝に歩いた海辺を確認できた。畳の匂いが心地よかった。僕は低い机の真ん中に置かれていた梅茶を入れほっと一息ついてから、持ってきていたノートパソコンを開いた。『秘密』と名付けられたその下書きは、たぶん、全体の1/10も書き上がってないであろう稚拙な小説だった。小説であり、随筆だった。キーボードに手を置き、目を閉じる。過去の出来事が走馬灯のように思い起こされる。

八月。君と過ごしたある日のこと。その日初めて、君の浴衣姿を見た。どこか儚いのに、僕には周りの景色がぼやけて見えるほど君の姿が色鮮やかに映って、泣き出しそうになった。並んで地元の夏祭りに行った。イカ焼きやりんご飴、ヨーヨー釣りなど、日本の夏の屋台が賑わっていた。おいしそうなにおいが夏祭りの会場を漂って僕らを包んだ。金魚すくいで僕は二匹、君は三匹すくった。ポテトフライを二人で分けて食べた。木々の茂みに隠れた、人気の少ない高台を見つけた。道なき道の斜面を登る必要があった。そこで初めて、僕は君と手をつないだ。君は下駄を履いていたから僕が先頭を切って慎重に登っていった。登った先には少しひらけた場所があって、屋台の喧騒から離れているからか人はほとんどいなかった。遠くから僅かに和太鼓と篠笛の音が聞こえる。僕と君は手をつないだまま、大きな岩に腰掛ける。どのくらいの強さで握ればいいか分からなかった。同じことを君も思っていると感じた。君のちいさな手の感触がたまらなく愛おしかった。ひぐらしの鳴き声が杪夏を象る。やがて、花火が上がる時刻になった。ふたり肩を寄せ合って、夏の夜空に咲く大きなその彩どりを、ただ黙って見つめていた。

これは二人だけの『秘密』。誰にも見せることのないであろうその文章を、僕は書き続けた。

 

 

波の音が時を忘れさせる。昼食を摂ることも忘れ、いつしか夕刻になっていた。僕は一旦『秘密』を閉じ、夕食を食べに行くついでに少し館内を歩くことにした。どこからかお香の匂いが漂う。誰もいない廊下を進んだ先に外の非常階段へと続く非常口があった。扉を開け外へ出てみる。気持ちのよい潮風が身体を抜ける。夕陽がさざ波に乱反射してキラキラと輝く。ああ、こんな気持ちの良い時に君と一緒にいられたらな、なんて思う。階段を下り夕食の会場へと向かう。やはり周りは人が少ない。優しそうな老夫婦や大学生らしいカップルが席に座っている。メニューを渡され飲み物欄を見てみると、気になるものがあった。

ミモザ

黄色い小花を咲かせる植物のミモザが名前の由来であるカクテルらしい。頼んでみると、シャンパングラスに入った鮮やかなオレンジ色をした飲み物が出てきた。炭酸が入った爽やかなオレンジジュースといった味で、お酒に弱い僕でも飲みやすかった。ふと、君と行った菜の花畑での出来事を思い出した。春の陽気の気配が感じられるその時季、いつもより楽しそうで、いつもよりよく笑っていて、一面の黄色と早春の青空の間で、夢のような君がいた。

「ねえ、お父さんの借金なんかさ、返さなくていいんだよ。君が全部肩代わりする必要なんてないんだよ。これ以上君がボロボロになる姿見たくないんだよ。僕と一緒に遠くへ逃げようよ。誰も追ってこなくなるまで、遠くへ」

「ありがとう。でもね、たぶん、そんな簡単にはできないよ。私もね、あなたさえいえばなんでもできそうだって思ってた。でもなんでもできそうって、言いかえれば、なんにもできないのといっしょだよ。なにもできないから、なんでもできそうな夢しか見れなくなるんだよ」

「そんなこと────」

「私ね、わかっちゃった。人間のことも、この世界のことも、ぜんぶ。あなたなら大丈夫。あなたは、あなたの人生を歩むんだよ。私とあなたは、違う人なんだよ」

私とあなたは、違う人。当たり前だ。でも僕は君になりたかったし、君は僕になりたいと思ってくれてほしかった。自分でもうまく説明ができないけど、もしこの世に愛を超える感情が存在するのなら、きっとこういう感情なんだろうと思った。菜の花に囲まれた君が、太陽のように笑ってはしゃいでいた。

夕食を食べ終わり部屋に戻る。再びパソコンを開く。

手が止まる。

僕はなんのために『秘密』を書いているのだろう。無意識に開いたパソコンの画面に映っていたのは『秘密』の続きではなく、ビデオフォルダにあるとある映像だった。いつもの部屋に君がいて、ギターを抱えて弾き語りしていた。君の歌声を久しぶりに聞いた。ざらざらした音質に天使のような声が際立つ。

「ねえ、」

徐に手を止めて彼女が訊いた。

「私たちって、どういう関係なのかな」

「えっ」

「もしこの関係に名前があるなら、なんなんだろう。あなたがどう思っているかは分からない。けど、」

彼女の瞳が僕を貫いた。

「けど、セフレとか、恋人とか、そんな一言で表せられるような関係だとは思わないんだ。たぶんもう私たちは、私たちだけの世界で、生きているような気がする」

彼女は自分に言い聞かせるようにそう言った。それは彼女が本当に思っていることではなく、彼女が本当になってほしいと願っていることだと感じた。その想いだけを頼りに、この生きにくい世界で必死に生きているんだと分かって、目頭が熱くなった。

パソコンを閉じ、広縁から外を眺める。ところどころ頼りなさげに燈る外灯のほかはまっくらで、波の音だけが微かに聞こえてくる。結局衝動的に旅をしても、場所をいくら変えたとしても、一時の非日常を味わうだけで得られるものは何もなく、僕らの『秘密』は完成しない。だんだん薄れゆく彼女との記憶を繋ぎ止めようと海に釣られただけで、彼女は戻ってこないんだ。明日の朝ここを出る。もう、今回でお終いにしよう。

翌朝、早々にチェックアウトを済ませたあと、僕は再び海辺の方へと向かった。ポケットには、接着剤でとめて元の形となった昨日拾った貝殻があった。海は朝の光を浴びて銀色にかがやき、澄んだ空気のなか波音だけが響く幻想的な空間だった。それは、昨日いた海辺とはまるで違う場所のように思えた。波打ち際まで行き、ポケットから貝殻を取り出す。波の鼓動に合わせ、そっと海に貝殻を置いた。波に飲まれてそれは次第に見えなくなっていった。欠けないように、僕は必死に祈ることしかできなかった。これが現実だ。これが、僕らの生きている世界だ。ミモザなんて飲み物も本当にあるのだろうか。神様、どうか彼女が、同じ空の下で笑っていられますように。

 

帰り、僕は再び昨日の喫茶店に寄った。

海を眺めながら、トーストをほおばった。

 

 

 

 

新宿と雨

午後6時、豪雨の新宿に、ギターを担いだ彼女は傘をさして立っていた。都会の光が雨に白んで幻想的な景色を生み出すなか、何という目的もなく、彼女はただそこにいる人間たちの有様を眺めていた。

限りなく行き交う人々、都会の喧騒、コンクリートを踏む音、休む暇もなく動き続ける電車の音、無数のバスが停る音、何かを求めるように歌う路上シンガー、紙の束で食いつなぐ家なき者、性欲に溺れる者、色欲を利用する者、人生に絶望した者、これから人生が始まる者、上級国民紛いのただの歯車、神様気取りのただの金持ち、自殺を試みる者、自殺を止めようとする者、それらを覆うビル群、雨、傘、彼女。ここには、人間の全てが詰まっている。

新宿の雨には、生臭い人間の臭いが染み込んでいた。新宿の音には、生々しい人間の生活の音が混じっていた。数え切れないほどの遣る瀬無さと、余りにも重すぎる責任が、彼女のギターケースの中に入っていた。

暫くして、彼女は傘を投げ捨てた。ギターを取り出す。ストラップを肩にかけ、ピックを持ち、大きく息を吸い、最初の弦に魂を吹き込んだ。

言葉にならない言葉を、彼女は叫んだ。

叫んで、叫んで、叫んだ。それは彼女が背負ってきた、人間というものの重さだった。人々の足が止まる。唖然とする人。スマホを向ける人。見て見ぬふりをする人。誰にどんな言葉が届いているのかも気にせず、彼女は今まで経験した全てのことをそこで発露した。

 

新宿の夜に雨が降り続く。都会の光が滲む。彼女がそこで叫んだのが嘘だったかのように、人々はアスファルトを蹴り続ける。