ミモザ

あの味を、まだ覚えている。

ほんの少し肌寒さを感じるような時季に、田舎の海辺にある良さげな旅館に泊まったのを覚えている。職を失い、収入が無になり、先が見えず、現実が不気味に白かったその時季。1泊2日で行こうと、本当に突然と思いついて、泊まる当日の始発の電車に乗ると決めていた、そういう精神状態の時季。僕には時間が有り余るほどあった。そして空間も。物欲がなかった自分の今の貯金なら、国内であればどこにでも行ける。1泊2日ならちょっと贅沢な旅館にも泊まれる。そして僕は、まだ若い。全くの平日の、何のイベントもない、十一月の人が本当に少ない時に行こう。そう決めていた。

始発電車を待つ駅のホームは、暗くて、蒼白くて、寒かった。ホームの蛍光灯はスポットライトのように僕を照らして、僕はこのホームの舞台で主役になっていた。鈍い音をたてながらやって来た始発電車に乗り、長い長い鈍行列車の旅が始まった。車窓から外をぼんやり眺めると、ゆらゆら漂う浅い霧たちが街を薄く映していた。

まるで、まだ夢の中にいるような心地だった。

列車に人はほとんどおらず、僕のいる車両はほぼ貸切状態だ。僕は昔の君からの言葉を思い出していた。あなたと一緒にいると、あなたと一緒にいる自分まで好きになる。そう言った昔の君の笑顔はとても温かくて、でも気づいていたかな、君の周りにはいつも雪が降っていたんだよ。君はあの時も、今の僕と同じ寒さを感じていたのかな。

列車が走る音は単調だった。都会にいるスーツを着た人間たちのように、列車はただ決められた道を等速度で走っている。その単調な音に連れられて、僕はうたた寝をしてしまった。

目的地に着いた時には陽射しがすっかり清々しく輝いていた。僕は駅からほど近い海辺の方まで歩いた。風が強く波が音楽を作っていた。その波が朝日に照らされて海一面が宝石を散りばめたかのようにキラキラと光っていた。強く、でもどこか心地よい風に打たれながら朝の海辺を歩いていた。砂浜にはところどころ綺麗な貝殻が落ちており、記念に持ち帰ろうといちばん綺麗な貝殻を探した。君と海に行った時も貝殻を探すのが恒例だったよね。お互いに不思議な色や形をした貝殻を拾っては見せあって、我ながら子供じみたことをしているなあと思っていた。そして、この瞬間が永遠に続けばいいのになあとも思っていた。しばらく砂浜を歩いていたら、ひときわ目を引く貝殻があった。大きな二枚貝の片方で、白に近いベージュをした綺麗な形の貝殻だったが、一部分が欠けていた。近くにその欠片が落ちていたのでふたつを合わせてみた。それはかつて、君が僕に見せてくれた貝殻に似ていた。とても綺麗な貝殻を見つけたと言って嬉しそうにはしゃぐ君が一瞬、僕の前に現れたような気がした。僕は欠片と一緒にその貝殻をポケットにしまった。

一頻り海辺を歩いてから気が付いたが、砂浜の端のほうに小さな古民家風の喫茶店があった。頗る暇を持て余していた僕は迷わずそのお店に入った。中に入ると客は僕だけしかおらず、その空間だけ時間がいつもの半分の速さで進んでいるような気がした。メニューにはほんの数種類の飲み物と、北欧の絵本にでも出てきそうな優しい軽食しか載っておらず、今日のお店をやり繰りしているであろう丸眼鏡をかけた人のよさそうなおじいさんに僕は、ホットコーヒーを頼んだ。窓からは、海が一望できた。時刻は午前10時になろうとしていた。朝から何も食べていなかった僕は、追加でトーストを頼んだ。そうだ、僕は昔から小食だったな、と、何故か今になって思い返す。この特性を活かして、僕はみんながお腹がすく時間にもいつも通り活動できたし、みんなよりも食費を少なく抑えることができた。それが僕の人生において何だったのかと訊かれれば、別に何でもない、と思う。トーストにはバターがしっかりと染み込まれていて、余りのおいしさに目を細めてしまった。こんがりと焼き上がったトーストとコーヒーの匂いは、朝、僕の部屋で、寝ぼけた顔でトーストをほおばる君の姿を自然と思い出させる。ねえ、おいしいかな。生きてる実感が湧くのってどんな時だろう、そう君が言ったことがあったよね。言ったというか、呟いたのかな。きっと、この瞬間のことを言うんじゃないかな。そう僕が言うと、君は小さく笑った。

茶店には外国の絵本がたくさん置かれていた。適当に一冊手に取る。英語で書かれていたが、子ども向けの簡単な英語だったため僕でも読むことができた。

みにくいアヒルの子

そう書かれていた。小さい頃に読んだ気がするが、内容はもうすっかり忘れている。

────あるアヒルのお母さんが巣の中のタマゴをあたためていました。やがてタマゴが一つずつ割れると、中からは黄色のかわいいひなたちが顔を出します。ですが巣の中で一番大きなタマゴだけがなかなか生まれてきません。しばらくたって、やっとタマゴを割って出てきたのは、たいそう体の大きなみにくいひなでした。みにくいアヒルの子はどこへ行ってもいじめられるので、みんなの前から逃げ出して、人目のつかないところで眠る日々が続きました。やがて秋になり、みにくいアヒルの子はこれまで見たこともないような美しいものを目にしました。白鳥の群れでした。「あんな鳥になれたら、どんなに幸せだろう。いや、アヒルの仲間にさえ入れないのに、そんなことを考えてどうするんだ」

ここまで読んで一度本を閉じる。みにくいアヒルの子と自分を重ね合わせる。人と考え方が違う自分はどこへ行っても孤独を感じていた。僕にとっての白鳥は、未来の理想の自分だった。孤独とは縁のない、明るく輝いている自分だった。10年前に思い描いていたその白鳥は、今や孤独の中でみにくいままだった。

────やがて冬がきて、沼には氷が張りはじめました。アヒルの子はアシのしげみにじっとうずくまって、きびしい寒さをたえしのびました。そのうちに、お日さまはしだいにあたたかさをまし、ヒバリが美しい声で歌いはじめます。ついに、春がきたのです。アヒルの子は体がうきうきしはじめると、つばさをはばたいてみました。すると、体が浮くではありませんか。「ああ、ぼくは飛べるようになったんだ」アヒルの子は夢中ではばたくと、やがておほりにまいおりました。その時、おほりにいた白鳥たちがいっせいに近づいてきたのです。白鳥たちにいじめられると思ったアヒルの子でしたが、白鳥たちはやさしくくちばしでなでてくれました。白鳥の一羽が言いました。「はじめまして、かわいい新人さん」

そして、水面に映った自分の姿を見て、初めて自分が白鳥であることを知る。ずっと孤独だったアヒルの子のハッピーエンドに思わず微笑む。本を閉じて時計を見ると、チェックインの時刻が迫っていることに気がついた。会計をして喫茶店を出ると、潮風の匂いがいっせいに頬を撫でた。

泊まる予定の旅館は海辺とは反対側の坂を少し登ったところにあった。古い民家が建ち並ぶ細い路地を歩き続け、周囲の自然に溶け込んだ立派な旅館にたどり着いた。旅館の周囲だけ時代が遡ったように、それは古風で悠々としていた。入口で女将さんの丁寧なお出迎えを受けて僕は部屋まで案内された。綺麗な和室で、広縁の窓からは朝に歩いた海辺を確認できた。畳の匂いが心地よかった。僕は低い机の真ん中に置かれていた梅茶を入れほっと一息ついてから、持ってきていたノートパソコンを開いた。『秘密』と名付けられたその下書きは、たぶん、全体の1/10も書き上がってないであろう稚拙な小説だった。小説であり、随筆だった。キーボードに手を置き、目を閉じる。過去の出来事が走馬灯のように思い起こされる。

八月。君と過ごしたある日のこと。その日初めて、君の浴衣姿を見た。どこか儚いのに、僕には周りの景色がぼやけて見えるほど君の姿が色鮮やかに映って、泣き出しそうになった。並んで地元の夏祭りに行った。イカ焼きやりんご飴、ヨーヨー釣りなど、日本の夏の屋台が賑わっていた。おいしそうなにおいが夏祭りの会場を漂って僕らを包んだ。金魚すくいで僕は二匹、君は三匹すくった。ポテトフライを二人で分けて食べた。木々の茂みに隠れた、人気の少ない高台を見つけた。道なき道の斜面を登る必要があった。そこで初めて、僕は君と手をつないだ。君は下駄を履いていたから僕が先頭を切って慎重に登っていった。登った先には少しひらけた場所があって、屋台の喧騒から離れているからか人はほとんどいなかった。遠くから僅かに和太鼓と篠笛の音が聞こえる。僕と君は手をつないだまま、大きな岩に腰掛ける。どのくらいの強さで握ればいいか分からなかった。同じことを君も思っていると感じた。君のちいさな手の感触がたまらなく愛おしかった。ひぐらしの鳴き声が杪夏を象る。やがて、花火が上がる時刻になった。ふたり肩を寄せ合って、夏の夜空に咲く大きなその彩どりを、ただ黙って見つめていた。

これは二人だけの『秘密』。誰にも見せることのないであろうその文章を、僕は書き続けた。

 

 

波の音が時を忘れさせる。昼食を摂ることも忘れ、いつしか夕刻になっていた。僕は一旦『秘密』を閉じ、夕食を食べに行くついでに少し館内を歩くことにした。どこからかお香の匂いが漂う。誰もいない廊下を進んだ先に外の非常階段へと続く非常口があった。扉を開け外へ出てみる。気持ちのよい潮風が身体を抜ける。夕陽がさざ波に乱反射してキラキラと輝く。ああ、こんな気持ちの良い時に君と一緒にいられたらな、なんて思う。階段を下り夕食の会場へと向かう。やはり周りは人が少ない。優しそうな老夫婦や大学生らしいカップルが席に座っている。メニューを渡され飲み物欄を見てみると、気になるものがあった。

ミモザ

黄色い小花を咲かせる植物のミモザが名前の由来であるカクテルらしい。頼んでみると、シャンパングラスに入った鮮やかなオレンジ色をした飲み物が出てきた。炭酸が入った爽やかなオレンジジュースといった味で、お酒に弱い僕でも飲みやすかった。ふと、君と行った菜の花畑での出来事を思い出した。春の陽気の気配が感じられるその時季、いつもより楽しそうで、いつもよりよく笑っていて、一面の黄色と早春の青空の間で、夢のような君がいた。

「ねえ、お父さんの借金なんかさ、返さなくていいんだよ。君が全部肩代わりする必要なんてないんだよ。これ以上君がボロボロになる姿見たくないんだよ。僕と一緒に遠くへ逃げようよ。誰も追ってこなくなるまで、遠くへ」

「ありがとう。でもね、たぶん、そんな簡単にはできないよ。私もね、あなたさえいえばなんでもできそうだって思ってた。でもなんでもできそうって、言いかえれば、なんにもできないのといっしょだよ。なにもできないから、なんでもできそうな夢しか見れなくなるんだよ」

「そんなこと────」

「私ね、わかっちゃった。人間のことも、この世界のことも、ぜんぶ。あなたなら大丈夫。あなたは、あなたの人生を歩むんだよ。私とあなたは、違う人なんだよ」

私とあなたは、違う人。当たり前だ。でも僕は君になりたかったし、君は僕になりたいと思ってくれてほしかった。自分でもうまく説明ができないけど、もしこの世に愛を超える感情が存在するのなら、きっとこういう感情なんだろうと思った。菜の花に囲まれた君が、太陽のように笑ってはしゃいでいた。

夕食を食べ終わり部屋に戻る。再びパソコンを開く。

手が止まる。

僕はなんのために『秘密』を書いているのだろう。無意識に開いたパソコンの画面に映っていたのは『秘密』の続きではなく、ビデオフォルダにあるとある映像だった。いつもの部屋に君がいて、ギターを抱えて弾き語りしていた。君の歌声を久しぶりに聞いた。ざらざらした音質に天使のような声が際立つ。

「ねえ、」

徐に手を止めて彼女が訊いた。

「私たちって、どういう関係なのかな」

「えっ」

「もしこの関係に名前があるなら、なんなんだろう。あなたがどう思っているかは分からない。けど、」

彼女の瞳が僕を貫いた。

「けど、セフレとか、恋人とか、そんな一言で表せられるような関係だとは思わないんだ。たぶんもう私たちは、私たちだけの世界で、生きているような気がする」

彼女は自分に言い聞かせるようにそう言った。それは彼女が本当に思っていることではなく、彼女が本当になってほしいと願っていることだと感じた。その想いだけを頼りに、この生きにくい世界で必死に生きているんだと分かって、目頭が熱くなった。

パソコンを閉じ、広縁から外を眺める。ところどころ頼りなさげに燈る外灯のほかはまっくらで、波の音だけが微かに聞こえてくる。結局衝動的に旅をしても、場所をいくら変えたとしても、一時の非日常を味わうだけで得られるものは何もなく、僕らの『秘密』は完成しない。だんだん薄れゆく彼女との記憶を繋ぎ止めようと海に釣られただけで、彼女は戻ってこないんだ。明日の朝ここを出る。もう、今回でお終いにしよう。

翌朝、早々にチェックアウトを済ませたあと、僕は再び海辺の方へと向かった。ポケットには、接着剤でとめて元の形となった昨日拾った貝殻があった。海は朝の光を浴びて銀色にかがやき、澄んだ空気のなか波音だけが響く幻想的な空間だった。それは、昨日いた海辺とはまるで違う場所のように思えた。波打ち際まで行き、ポケットから貝殻を取り出す。波の鼓動に合わせ、そっと海に貝殻を置いた。波に飲まれてそれは次第に見えなくなっていった。欠けないように、僕は必死に祈ることしかできなかった。これが現実だ。これが、僕らの生きている世界だ。ミモザなんて飲み物も本当にあるのだろうか。神様、どうか彼女が、同じ空の下で笑っていられますように。

 

帰り、僕は再び昨日の喫茶店に寄った。

海を眺めながら、トーストをほおばった。