手をつないでキスをする

4月の空気が好きだ。温かく優しいベールのような空気が身体を包んで、心地よい気持ちになる。

春の由比ヶ浜を歩くたび、僕は彼女のことを思い出す。まるで春の空気のように人を優しく包み込んでくれる存在だった。人の悪口もめったに言わない人、少なくとも僕が一緒にいた時には聞いたことがなかった。彼女は写真を撮るのが好きだった。たまに僕も撮り方を教えてもらったりしていた。空の写真をよく撮りたがる人で、同じ空でも、場所によったり、日によったり、その時の気持ちによったりして、全然違う顔を見せるんだよ、みたいな話もした記憶がある。

この日の由比ヶ浜には人が少なかった。僕はカメラを首から下げ、ただ宛もなく、海辺にそって歩いていた。波の音と、砂を踏むジャリ、ジャリとした音だけが耳に残る。しばらく歩いてから、なんとなく砂浜にしゃがみこんだ。しゃがんだところに綺麗な真っ白い貝殻が砂に半分埋まっていた。それはあまり見たことないほど綺麗な純白で、ほかの貝殻よりも思わず目を引いた。

「これを彼女が見たらなんて言うだろうか」

そんな思いがふと頭をよぎった。「ねえ、持って帰って家に飾ろうよ!」とはしゃいで笑う彼女の顔も思い浮かぶ。「手に持って!写真撮ってあげる!」と澄ましてカメラを構える彼女の姿も眼に浮かぶ。

僕は貝殻をポッケに仕舞い、立ち上がって再び歩きだした。

由比ヶ浜駅から江ノ電に乗り、江ノ島で降りた。江ノ島は彼女と一度来たことがある場所だった。一人で江ノ島を登るのには少し抵抗があったが、人が少ないことも幸いして、気兼ねなく写真を撮ることができそうだった。

海岸から江ノ島へと続く橋がやけに長く感じる。以前来たときはなんとも思わなかった。彼女と一緒にいる時間は、1時間も1秒ほどに感じられるほど速く過ぎていった。つらいことは短い時間でも長く感じるが、好きな人との時間は長くても一瞬のように感じられる、みたいなことをアインシュタインも言っていたような気がする。

江ノ島にたどり着くと、土産屋や宿、甘味処や飲食店が軒並びで建っている。その時の僕はあまりお腹も空いていなかったし、何か食べるという気も起こらなかった。僕が江ノ島で行きたいところは2つ。そのうちの1つに僕は早く行きたかった。

江ノ島神社へと続く階段に行く手前、土産屋などが並ぶ大きな通りから、路地裏へと続く細い道が出ている。そこを進むと、次第に目の前に海の景色が広がり、小さな隠れ家のような海辺に出る。そこは普段から人が少なく、今日のようなもともと人が少ない日には周りを見渡しても僕しかいないようだった。

波打ち際まで行くと、僕はさっき拾った貝殻を取り出し、貝殻を持った手をカメラのレンズの前に掲げて、海をバックに写真を撮った。カシャ、という短いシャッター音が虚しくいつまでも耳に残るような感覚がした。しばらくしゃがんで海を見つめる。今日はさっきから嫌というほど海を見てきたはずなのに、なぜか、海はいつまでも見続けていられる。

 

彼女とこんな話をしたことがある。

────ねえ、もし私が不治の病で、生きられるのがあと1週間だと知ったら、どうする?

惚気けたカップルがするような話を彼女が急に持ち出したことに少し驚いた。いつもはあまり甘えてこないような性格だっただけに、その質問にはなにか他の意味があるんじゃないかと懐疑的にさえもなった。

────それは、身体は動かせるの?

彼女はふふっと笑い、そういうとこ、**くんらしいねと言った。僕はふんっと少し意地悪そうな顔をして、でも優しく言った。

────1日目から最後の7日目まで、**の好きなことをしてあげる。好きな場所にも連れていくし、好きなものなんでも買ってあげる

彼女は僕の顔をじっと見つめながら聞いたあと、またふふっと笑った。

────じゃあ、家も買ってくれるの?あ、私ネコ飼いたい!大きな家にマンチカンとか飼いたい!

今度は彼女が少し意地悪そうな顔をして、そのネコに似た大きな眼を輝かせて言った。僕は苦笑して彼女の顔を見る。まるでこの世界の教科書のようなかわいい笑顔が、優しく僕の心を包み込んでくれるような気がした。

────でもね、もし私があと7日で死ぬとしたら、**くんに、最期の瞬間まで、ずっと手をつないでもらいたいな

────ずっと?トイレも?

────トイレはやだ

────なんだよ

────あと風邪ひいてもダメ

────おいおい、たったの1週間だぞ

────意外と長いよ、1週間

────てかしてほしいことって、それだけ?

────うん、それだけ

 

気がつくと、陽が少し沈んでいた。急がないと、街灯が少ない江ノ島内は何も見えなくなる。僕はもう1つの行きたかった場所へ急いだ。

恐らく日が暮れるギリギリの時間だったろう。江ノ島の頂上付近、草木に囲まれた丸太の階段を上っていくと、目の前には自分が飲み込まれてしまいそうなほど遠くまで海が広がっていた。そこにある金網には、施錠された無数の南京錠が静かに顔を覗かしていた。その手前に、小さな鐘がぽつりと佇んでいる。

「恋人の丘」と呼ばれるらしい。いかにもデートスポットっぽい名前だな、と、最初に聞いた時は思った。2人の名前を南京錠に書いて金網に施錠して鐘を鳴らすと、永遠の愛が誓えるらしい。まあ、よくあるような話だな、と思った。

僕は無数に並んだ南京錠を順番に見ていった。なんとなくの記憶はあるから、それはすぐに見つかった。僕と彼女の名前が書かれた南京錠。そっと手にとり、優しく親指で撫でた。

────こういうことしたの初めて

あのとき彼女は、いつものように屈託なく僕に笑って、しばらく南京錠を眺めていた。

 

江ノ島に行きたいと言い出したのは彼女の方からだった。たまたま江ノ島が舞台の映画を観て、今まで行ったことがないから実際に行ってみたいという、ただそれだけの理由だった。お互いの休みが被って天候が良い日に行こうと決めた。それが今から約1年前の話だった。デートの約束をする時の、彼女のあの嬉しそうな顔が僕は好きだった。

彼女から家族のことを話されたのは江ノ島に行く前日だった。以前から母子家庭であることは知っていた。でもなぜ母子家庭なのか、とか、どういう経緯なのか、とかは彼女から話すことはなかったし、僕もなんとなく聞かないでいた。今でも詳しくは分からない。でも決して良いことで父親がいなくなったわけではないことは分かっていた。小さい頃から父親がいないため、母の手一つで娘を育てる必要があった。もともと裕福ではなかったため、母親は朝から晩まで働いた。仕事柄休日でも出勤することもあった。そのため彼女は、母親に構ってもらったことがあまりないと言った。

やがて彼女は就職し家を出た。経済的な理由で大学には行かなかった。母親を少しでも助けるため料理は昔からよく自分で作っていた。その経験もあり、飲食店で働くことになった。同じ頃、僕は大学生になり、彼女が働く飲食店にホールのバイトとして入ることになった。そこで僕と彼女は初めて出会った。

────私が働き始めてしばらくしてね、私のお母さん、死んじゃったんだ

────え

────家に借金があったみたい。私もそれ、初めて知った。たぶん私に迷惑かけないようにして、私が家にいる間、ずっと一人で隠してたんだよ。そして一人で頑張って働いて、ちょっとずつ返してたんだよ。でもそれじゃ追いつかなくなって、自分が死んだ時の保険金で、借金返そうとしたんだと思う

江ノ島に行く前日、彼女からその話を聞かされた時、咄嗟に言葉が出てこなかった。彼女にどういう言葉をかけるのが正解なのか、それとも黙っておく方が正解なのか、頭の中がぐちゃぐちゃで、重りを上から落とされたかのような鈍い衝撃が僕の身体を伝った。

────ごめんね、せっかくのデートの前日にこんな話して。でもいつかは言わなきゃって。他の誰にも言ったことはないけれど、**くんには言わなきゃって思った。でも安心して、私は大丈夫だから。いつまでも落ち込んでばかりはいられないから

そう言う彼女の眼は、明らかにあの彼女の眼ではなく、全くの別人の、まるで死人のような眼をしていた。顔は笑っていても、心は笑っていないことは僕には容易にわかった。いつまでも僕はかける言葉が見つからず、彼女はすぐに翌日のデートの話に戻した。

恐らく彼女は、僕が思っているほどずっと、ずっと、心に拭いようもない深い傷を抱えながら生きているんだと思う。一生塞ぐことのないその傷を背負いながら、彼女は自分なりに、僕を心配させないように、人を包み込む優しい雰囲気で生きているんだ。そう思うと途端に、なぜもっと早くその傷に気がつかなかったんだと僕は自己嫌悪に陥る。でも彼女はそんな僕の姿を見て、**くんは何も悪くない、悪いのは全部私なんだ、とでも言うのだろう。彼女はきっと、母親が死んだのを自分のせいだと思い込んでいる。そんな計り知れない彼女の深い傷を少しでも癒せるのは僕しかいないと、そう確信した。

翌日、僕たちは江ノ島に行った。ちょうど今日のような心地よい日で、今か今かと待ち構えながら眠っていた動植物達が春の陽射しに顔を覗かせるような、そんな暖かい日だった。デート中、昨日のことはお互い一切口には出さなかった。ただ普通に、いつものように、1時間が1秒のように速く過ぎる幸せな時間を彼女と過ごした。土産屋を見て回ったし、しらす丼も食べた。彼女はカメラを抱え、島内のあちこちを撮ってまわった。春休み中だったからか人は多かった。それでも彼女はなりふり構わず写真を撮りまくった。僕は笑いながら冗談っぽく注意したりもした。そこにつらく苦しい時間は一瞬たりとも存在しなかった。日が暮れ始めて僕たちは恋人の丘に登り、2人の名前を南京錠に書いて金網に施錠した。そして一緒に鐘の紐を持って鳴らした。カップルがよくやるやつ私たちもやっちゃった、と彼女は笑った。これで一生一緒だね、と僕は冗談っぽく言った。でも一生一緒にいたいという気持ちは本当だった。

彼女の心からの笑顔を引き出せるのは僕しかいないと、本気で思っていた。

────僕には、僕にしか見せないような笑顔を見せてほしい。僕も君には、君にしか見せないような優しさをあげるから────

江ノ島の頂上から見える海に沈む夕陽を、僕たちはベンチに座って眺めていた。僕と彼女はずっと手をつないだままでいた。

────最期の瞬間まで、ずっと手をつないでもらいたいな

その時だけ、彼女のその願いを叶えることができたかな、と思っていた。僕と彼女はただ黙って、海に沈む夕陽を見つめていた。その日は最後までお互い手を離さず、もちろんトイレの時は手を離したけれど、その日1日だけでも、彼女の願いを叶えてあげたかった。

 

それからほどなくして、彼女は桜のように散った。

 

彼女の訃報を聞いたのはバイト先の先輩からだった。僕は先輩の言うことが全く理解できなかった。

人生で最大とはっきりと言えるほどの絶望を、僕は味わった。

なんで、なんで、なんで、なんで────

僕は思考する能力も、理由を探ろうとする活力もすべて失ったまま、ただ彼女はまだ生きているかもしれないという妄信と、彼女はもういないという絶望が、黒と白を混ぜ合わせた絵の具のようにぐにゃぐにゃと色を作って頭の中を掻き乱した。

彼女の居場所を先輩に聞いた。あの時の僕は文字通り鬼の形相になっていたに違いない。彼女には身寄りの親がいないため、他人の僕がすぐに会うのは難しいと言われた。それに既に病室からは移されているという話も聞かされた。

死因は事故と言われた。本当かどうかは分からない。この時代、調べれば分かることもある。でもそんなことは決してできなかった。彼女が母親を追って逝ってしまった可能性もある。それだと僕は、彼女の傷を、1ミリも塞ぐことができなかったことになる。

 

────最期の瞬間まで、ずっと手をつないでもらいたいな

彼女の言葉が反芻される。

なぜ彼女は死ぬ必要があったんだ?

なぜ彼女が死ぬ必要があったんだ?

なんで────

 

気がつくと辺りはもうすっかり真っ暗になっていた。僕は自分でも知らぬうちに南京錠を掴んだまま涙を流していた。暗闇で近くにあるものさえあやふやに見えるようなこの世界で、けたたましい波の音だけが轟々と響いていた。僕は涙を手で拭い、スマホの灯りをつけ2人の名前が見えるように南京錠の写真を撮った。僕は彼女ほど写真を撮るのが得意ではないので、ちょっとブレてしまったかもしれない。

恋人の丘には街灯がないので、このままこの暗闇の世界にいては自分が自分ではなくなってしまうのではないかというような感じに襲われた。僕はスマホの灯りを頼りに、慎重に丸太の階段を降り、夜の侵略から逃れるようにその場を去った。

僕は足早に帰り道を進んだ。江ノ島は島内を一周して元の場所に戻るようになっている。砂を踏む自分の足音を永遠に聞きながら、スマホの灯りと申し訳程度にある街灯が微かに僕のゆく先を示してくれた。

1秒が1時間のように感じられた。いつまで経っても出口にはたどり着かないような気がした。一人だとこんなにも時間は長く進むのかと苛立ちにさえ似た感情を覚えた。僕はひたすらに歩いた。実際に歩いた距離と僕の感覚は明らかに違っていた。

あの日、彼女と江ノ島に行った帰り、彼女は僕の下宿先に泊まった。もう夜も遅かったので、一緒にコンビニに立ち寄ってちょっとのお菓子だけ買って帰った。お互い1日歩いて疲れていた。別々にお風呂に入り、部屋を暗くして、小さなソファに座って二人で肩を寄せあって、コンビニで買ったお菓子を頬張りながら画面の小さいテレビを見ていた。テレビの中では「悩み」や「苦悩」といった言葉を知らないような芸人たちがただはしゃいでるだけのように見えた。テレビの中から聞こえる言葉が入ってこない。その時の僕はなにか別のことを考えていたのか、それともただ疲れていただけなのか、分からない。ただテレビの中の人を見ながら、この人もこの人なりの人生を送ってるんだな、と思った。

肩の重さが大きくなったような気がした。見ると彼女は目をつむっていた。それが寝たフリだと僕はすぐにわかった。彼女がもたれかかってきたので、僕もなんとなく同じ方向に横になってみた。二人で横たわる。彼女の顔がなんとなくニヤリと笑っているように見えた。僕はテレビを消した。

彼女の顔が近い。鼓動が速まる。

僕は彼女と手をつなぎ、優しくキスをした。

 

今の僕に、白雪姫の王子さまのように、キスをすることで彼女を甦らせることができるのなら。

たまにそう思うことがある。

帰りの電車で僕は、ぼんやりとカメラの履歴を眺めていた。僕がいる車両には人は4,5人しかおらず、窓の外は真っ暗で何も見えない。あの日彼女が僕の家に残していったカメラ。彼女が帰ってから忘れていることに気づきすぐに電話をしたが、そのカメラあげる、と無造作に言われた。そういうわけにもいかないので次に会った時に返そうと思っていたが、その時はもう二度と来なかった。あの日のキスが最後のキスになろうと誰が思っただろう。過去に彼女が撮った写真を見つめながら、もう克服したはずの鬼のような孤独感が再び襲ってくる感じがした。今の僕にはこのカメラとさっき拾った純白の貝殻しかない。

過去から順番に写真を見ていった。二人で行った場所や、1枚1枚顔色が違う空の写真。そして彼女が撮った江ノ島の写真がたくさん残っている。僕とは比べ物にならないほど上手だ。過去から現在へとどんどん写真を巡った。

その写真を見て、ふと手が止まった。

江ノ島に行った日に撮られた写真。見ると、僕が今日持って帰った白い貝殻と瓜二つの貝殻を彼女が手に持って撮った写真だった。その純白の輝きは画面の中でも色を失わず、アングルも構造も、まるで僕が今日撮ったものと見分けがつかないほどだった。1年前に履歴を遡った時には気がつかなかった。

いつの間に撮ったのだろう。あの日、綺麗な貝殻を見つけたなんて話はしなかったはずだ。

僕はすぐさまポッケにあるその貝殻を優しくつかんで取り出した。全く同じもののようだった。

そう思いたかった。

瞬間、僕の手に、なぜか彼女と手をつないでいるかのような感覚が伝わった。

彼女と同じ手の形をしてみる。そうするだけで、彼女のあの温もりが感じられるような気がした。

貝殻を握って目を瞑る。

波の音、海潮の匂い、彼女の笑顔、記憶が────

 

ごめんね、約束守れなかった

最期まで、手をつないであげられなかった

────ううん、私は今、とても幸せだよ

 

電車に揺られながら、貝殻から伝わる温もりを肌で感じる。

僕は今、彼女と手をつないでいる。