23億回

今日も人は、人の間で生きている。誰かが人を褒めている間に、誰かが人の悪口を言っている。誰かが言い訳をしている間に、誰かが本当の気持ちを伝えている。誰かが死に物狂いで働いてる間に、誰かが一日中ゲームをしている。今日も人は、人の間で生きている。友だち同士のいざこざを心配する素振りを見せながら、心の底では楽しんでいる。自分が悲劇のヒロインかのように夢を語りながら、何もせずのうのうと生きている。今を楽しめたらそれでいいと綺麗事を並べながら、ただ自分勝手に遊んでいる。今日も人は、人の間で生きている。本日も有名人の良からぬ噂がSNS上で広まった。興味のない友人たち。あるいはそれをネタに居酒屋の席で盛り上がる若者たち。当の本人は癌のように広がる根も葉もない噂に心を病んで、自殺の一歩手前まで進む。低所得でも税金を収めるサラリーマン。毎日必要最低限に暮らしている。税金で豪遊する政治家たち。お金に苦労することのない親ガチャに大成功したぼんぼんたち。株で儲けて豪遊する友人。何もせず大金を手に入れたように見える。羨ましいとは思っても、結局自分では何もしない。今日も人は、人の間で生きている。

ねえ神様、もしも僕が死んだら神様にしてください。神様は人の全部のことが分かるんでしょう。そうして人の全部を理解して、思っていることも、嘘の裏の本当の気持ちも、あの時の感情も、もっと、もっと、ちゃんと分かって、人間というものを、知りたい。なぜ人は人を陥れ合うのか、それでもなぜ人は人のために動くのか、あの時あなたが去り際に言った言葉の意味は何だったのか、なぜ僕は、いつまで経っても独りなのか。

今日も人は、人の間で生きている。人は永遠に人を理解することはできない。時には自分のことも分からなくなる。何もかも分からなくなる時がある。それでも世界は、人が人のために動くことで、人が人を愛することで、人が人を許すことで、今日まで壊れず続いている。僕が神様になったら、もっと、ちゃんと、人が人を許せる世界にしたい。

蒼穹

僕がもう死にたいと思った時、必死になって生きる理由を見つけることがある。それがたとえどんなに下らないことであろうとも、僕にとってそれは、小学生にとっての夏休みのような、大地にとっての雨のような、輝きと潤いを与えてくれる大事なことだった。あそこの喫茶店のハヤシライスが美味しいからもう少しだけ生きてみよう。夏から秋に移りかわる瞬間のあの風の匂いを嗅ぎたいからもう少しだけ生きてみよう。あの歌をまだ聴きたいからもう少しだけ生きてみよう。あなたとまた海に行きたいから、もう少しだけ、生きてみよう。無能でもなく感傷的過ぎない僕がいる世界線で、家族も、あなたも、僕も、一体どんな人生を送るのだろう。空は驚くほどの快晴で、感傷的過ぎる僕が立ち止まって空を見上げている隙に、感傷的過ぎない僕は何も気にせず横断歩道を渡るのだろう。小さい子どもが一人うずくまって泣いている傍で、感傷的過ぎる僕が何もできない自分に哀しんでいる間に、感傷的過ぎない僕はそっと子どもに話しかけるのだろう。決して知ることのないもう一つの世界線を死ぬことで垣間見れるのなら、見たくはないから、まだ、生きてみようと思える。

それでもまだ死にたい現世で、僕はまた眠る。

燃胞

この文章を書くとしたら、きっと真夜中だろう。久しぶりに、希死念慮がやってきた。突然出てきたのではなく、必死になって押さえ込んでいるだけで常に僕の心の表面で眠っているこの思いが、目を覚ましただけだった。機械が初めて心を持った時のような、希望ではなく絶望が、やっぱり確かにあった。

今までの人生、色々経験しているようで何も経験していないと気付きました。他人に優しくしていると思い込んでいるだけで誰にも優しくできていないと気付きました。小中高と必死こいてここまで生きてきました。ルールも破らずクソ真面目に先生の言うことを聞いてここまで生きてきました。大きな反抗もせず、犯罪も犯さず、人前で悪口なんて滅多に言わず、そうやって飯食って用足して布団に入って寝てちゃんと人間として生きてきました。その結果がこれですか?全ての結果が自業自得だとしたら、僕達は結局一人で生きなくてはいけないんですか?どれだけ頑張って頭をひねって言葉を紡ぎだそうとしても僕の稚拙な頭じゃ僕の本当の気持ちは誰にも伝わらないということ、僕にしか出せない言葉があるというナルシストな妄想はもういい加減やめた方がいいということ、充分に分かっています。僕はたった一人でも他人を幸せにできないということ、他人の幸せを背負えるだけの大きな背中を持っていないということ、充分に分かっています。もう普通の人生を送るのはできないということ、本当の意味で幸せな瞬間を迎えるのはこの先ないということ、それは、分かりたくないです。でも、分からなくちゃいけないんです。

ついさっき見た夢も、これから見る現実も、どうか夏の蜃気楼で歪ませて。

手癖

今この世界に存在する言葉だけで僕の本当の考えが伝わるのなら、どうかその方法を教えてくれ。

路上で歌う若い男の横を通り過ぎ、ポツポツと光る都会の灯、閉まるスターバックス、残業終わりらしき沢山のスーツたちに囲まれ、無味乾燥な電車に揺られ、でかいイオンがあるようなちょっと郊外の、街灯がそれとなく光るちょっと田舎の、そんな帰り道でも、君と帰ったならきっと海にでも行くような、そんな気持ちになっただろう。結局帰りはコンビニ寄って、体に悪いと知りながら無言の部屋で弁当を食べるのだろう。

考えたんだ。君と帰る家は家賃4万6千円の狭いアパートで、玄関に靴棚がないような、風呂トイレは別だけど洗面所がないような、電気のスイッチの場所がちょっとおかしいような、そんなところにしよう。ボロくてもいい。汚くてもいい。サブカルバンドの歌詞にあるようなクサいストーリーに、潔癖症の僕を連れ込んでくれよ。部屋干しされた洗濯物の下に、空になった日清のカップ麺とちょっと残ったスト缶を置いて、部屋の電気を全部消しても窓から差し込む月明かりでほんのり周りが視認できるような、そんな夜に君と寝よう。ベッドは壁側がいい、僕はあまりトイレに行かないから。そう言っていざ壁側で寝ると、ほんとは君が壁側の方がお互い寝やすいことに気づいて結局入れ替わるのだろう。窓から入るそよ風が気持ちよく当たる。月明かり、風の音、君の匂い。ああもう僕は、このまま世界が終わっても後悔はない。きっとそう思うのだろう。

誰も触れることができなかった僕の世界にヒビを入れてくれよ。誰も暴けなかった僕の嘘を暴いてくれよ。誰も裁くことができなかった僕の罪を────

僕には結局、独りが合っている。今までずっとそうだった。僕は独りでいるときが一番自分らしかった。独りでいる限り誰も僕の邪魔をしないし、誰も僕の嘘を暴けないし、誰も僕の罪を裁けない。そして、誰も傷つくことがない。でも、例えば贅沢を言っていいのなら、僕の手癖を治してくれるあなたが欲しい。僕の手癖が治れば、なんだかこの世界のどんな問題も解決しそうな気がするから。それは僕自身ではなくて、あなたが治してくれないと意味が無い。あなたが僕の世界に入り込んでくれないと意味が無い。嘘と罪だらけでエグいほど汚れた僕を唯一許してくれるようなあなたじゃないと、くだらなくて甘え切った僕を唯一抱きしめてくれるようなあなたじゃないと、そして、世界の誰よりも僕を怒ってくれるあなたじゃないと、僕の涙の本当の意味は誰にも分かることはないから。

そんなことを言っている間にも、またいつもの手癖が出てしまった。早く、現れてくれませんか。

山荷葉

僕が人のために泣いたのは、君が初めてだった。

結局眠れなくて、パソコンを触っていたら朝五時になっていた。小鳥が街に一日の始まりを教え、淡い碧がカーテンの隙間から顔を覗かせる。また、時間を無駄にしてしまった。まあ、いいか。僕の時間にはそんなに価値がないから。あ、こんなことを言うとまた君に怒られるかな。君は仏のような考え方をしていたよね。それは僕に対してだけじゃなくて、誰に対しても。それが僕にはちょっと寂しかったりはしたけど、そんな優しい君が僕は好きだった。君の一秒は、僕の一秒の何千倍も価値があるんだよ。そんなことを言っても君はいつも、人に流れる時間の価値はみんな同じだよと返してくる。 でもね、この世の中はそんな綺麗事だけじゃ成り立たないんだ。それを一番よく分かっているのは、君のはずなのに。

君はよく笑っていたよね。それは決して無理して笑っているんじゃなくて、本当に心から笑っていたと思う。大して面白いことも言えないし、楽しいこともできない僕だけど、君は僕と一緒にいるだけでつい笑顔になると言っていた。それを聞いた僕は嬉しさを感じるより先に、なんだか感心しちゃったな。たぶん、僕の笑顔の99%は作り笑いで、自分でもいつ本気で、心の底から笑ったのか覚えていないくらいだったのに、君の笑顔は100%が本物で、でも君は本当に笑える時しか笑わなくて、それはきっと僕の前だけであって欲しいと願うほどに、僕は君を手放せなくなっていった。もう君には聞こえてないよな、僕の面白くない話も、僕の楽しくない言動も、僕がここにいる音も、もう、何も聞こえてないよな。

せめて最後の一瞬だけでも、自分を犠牲にしたかった。

誰にも言えないような不幸を抱えて生きてきた彼女を、それでも僕を笑かそうとしてきた彼女を、ねえ神様、僕に託していた理由は何ですか。彼女の努力に気づいて、何もできない自分に気づいて、自分から離れていくような僕に、彼女を幸せにするという使命を与えたのは何故ですか。お願いです、自分の幸せよりも他人の幸せを優先させてきた彼女を、どうか世界が見捨てませんように。もしも彼女が泣いてしまったら、透明になってあらゆる不幸から逃れられますように。涙で溢れた彼女を見たくないから、僕にも見えないように透明になりますように。

ああ、また自分勝手だな。僕は何を言っているんだろう。

涙で溢れて、僕は透明になった。

椿にナイフ

何も上手くいかなかった日の帰り道、とある若者の集団の大きな笑い声を聞いて、ふと、全ての人間が無理になった。

人間は、身体も、精神も、脆い。宇宙上最悪の肉体で、宇宙上最弱の精神で、僕たちは生まれてしまった。まだ世界の何も知らない頃、僕たちは皆平等だと信じていた。大人は皆ちゃんとした人間だと信じていた。大人になった今、僕たちは未だ世界という大きな小学校に閉じ込められている気がする。どれだけ歴史を繰り返しても何も変わらない僕たちは、少し手首をカッターで切っただけで、少し薬を多く飲んだだけで、ちょっとひとりぼっちになっただけで、死んでしまう、いとも容易く。そうやって人々が死ぬ姿は、きっと息を呑むほど美しいんだろうな、そうじゃないと僕たちの弱さの割に合わないよ。大きな笑い声を上げているあそこの集団も、メディアに囃し立てられるあの大金持ちも、何も無い僕も、同じなんだろうな。

何でもないいつもの帰り道に、血のように真っ赤な椿が咲いていた。冬の冷淡さとは裏腹に、僕に寄り添うようにたくさんの椿が咲いている。視界一面が美しい赤に呑まれた。僕は人間の弱さに囲まれているような気がした。それは力強く、宇宙をも飲み込んでしまうほど勇ましく、圧倒的な自信に満ち溢れていた。皮肉だな、人間の弱さは、何のためにあるのだろう。初めから強い生き物を作っていれば、神様もこんなに手を焼く必要がなかったのに。

哀れな僕たちを嘲笑う神様を、椿がじっと見つめていた。

瑪瑙

冬の雨は、寒くて、痛くて、誰の身体にも纒わりつかない、冷淡で孤独なものだった。

今、私は、誰にも見られることがないこの文章を書いている。社会のルールとか、身に付けておくべき常識とか、他人を軸にした価値観も、他人によく見られようとして習得したスペックも、必要最低限押さえておくべき身だしなみも、そんなものとは無縁の、貴女がただヘッドホンで音楽を聴いているその姿が、なんだか私にとって世界の全てのような気がしたんだ。私は貴女と出会うその前から、貴女と一緒にいる時の幸福よりも、貴女を失う恐怖の方が大きかったんだよ。気付いてないだろうけど、それは辞書に載っている「孤独」よりもずっと深い、138億年の孤独の中で私が感じていた唯一つの正直であったんだ。今、私が貴女の使っていたヘッドホンで音楽を聴くと、東京の人口は私ただ一人になる。独りになったんじゃない。一人になれたんだ。貴女が一緒にいる、という意味を含んだ大切な一人なんだ。

雨、都会の雑踏、私だけが知っている此処。

もう誰も使わない机の上に、美しく光る瑪瑙を一つ、置いている。