沈む夏

ねえ、あなたは今、どこで何をしているの。

嘔吐くような夏の気配がまた押し寄せているんだ。いつまで経っても沈まない夕陽が、あまりに残酷で、こわくて、地球ごと僕を飲み込んでしまいそうだよ。

ベランダで一人、線香花火。

世界中の香水やアロマを探してもあなたと同じ匂いのものはないけども、この蒸しかえるような夏草と砂のにおいが夏祭りで手をつないだ僕たちをいつまでも甦らせるんだ。祭りの喧騒で賑わうはずなのにあなたの声だけははっきりと聞こえた。手の感触が忘れられない。どのくらいの強さで握ろうか手探りするあなたの不器用さが忘れられない。今年もまた、あの時と同じ花火の音がする。火薬の焼けるにおいが漂う。

海辺であなたを追いかけた。ドラマみたいなことをしたなと自分でも思った。僕ら二人以外には誰もおらず、ああ、本当に世界で二人だけになってしまったなと思った。砂浜に足をとられる僕らを夕陽が笑っていた。波が僕ら二人の足跡を消していった。必死に追いかけて掴んだのは、あなたの幻影だった。

僕が寝ているふりをしている時に、あなたがちいさな声で大好きだよと言ってくれたこと、知ってるよ。あの時は、返事してあげられなくてごめんね。人を好きになれない二人だからこそ、二人にしか生み出せない世界がそこにはあった気がしたんだ。人を信用できない二人だったからこそ、僕たちは、一番信用したいものが同じだったんだよ。こんな哀しいことがあるか。いつか僕たち魂だけの存在になったとき、高次元でまた逢えるかな。

この火種が落ちたら、僕らの夏の記憶は消えてしまう。ふとそう思った僕は、気怠い夏の夜に沈んでいった。どこまでも、沈んでいった。

雪那

今日も薬を飲んだ。自分で自分の世話をするのに精一杯だ。毎日連絡を取る相手はいない。毎日も話すことがないからだ。それでも連絡手段はいつまでもあって、"友だち"一覧からその名前は消えない。アイコンが私に微笑んでいる。本当に微笑んでいる相手は私ではないのに。ボタンひとつで、いや指一本の静電気でこの笑顔は消える。

そうやってつかず離れずの関係ばかり増えていく。

たまに連絡はするけど会うのは億劫。嫌いなわけではないけど死んだら永遠に悲しむわけでもない。一緒にいたら楽しいけど自分の本当の淋しさを埋めてくれるわけでもない。

そんなことを思っているのは、あなたも同じですか?

それともこれは、私だけですか?

夏の雨はやまない。

 


ところで、目を閉じていても私たちは雨を知ることができる。それは雨粒が窓や地面に当たって鳴る音を、あるいは雨が地面に染み込んで香る匂いを感ずることで知覚している。しかし私たちは雪という音のしないものをも知覚できる。それはむしろ雪があらゆる雑音を吸収し、世界から音をなくした結果、"無音"という音を発するからであろう。雪とはまさに、孤独を以て孤独を制す存在。だから私は雪が好きだった。以前、夏に降る雪の話を、私は小説に書いたことがあった。気温のせいでそれは積もらない。視認はできるが存在を確かめる前に消えてしまうその儚さに、自分を重ねていた。雪よ、あなたは今、どこにいるのですか。

独白

友達はいる。親友と呼べる人も何人かはいる。孤独じゃなかった。そう確信していた。でもそう思い込んでいただけだった。孤独じゃない振りをしていた。本当は孤独だった。嘘と虚栄で塗り固めた人生は、僕と世界との間に壁を作った。ずっと独りで生きてきた。でも、もう限界だった。今までで一番の限界だった。自分で自分の首を締めることは、自分で手加減なんかできない。最悪の苦しみをもたらすものだった。恥はもうない。でもプライドはある。「僕が僕として生きる」というプライドがある。死んでも捨てたくはない。

他人にどう思われるか。友人が離れていかないか。もう二度と人に好かれないんじゃないか。いい加減にしろ。それは本当に友人に絶交されるほど酷いことなのか。他人の人生を狂わせるほどの犯罪なのか。僕はただ、人が人を大切にする、人が人を許せる、そんな世界で生きたかっただけなんだ。

もう止めようよ。いい加減にしよう。この世界も、自分も、きっと、もっとシンプルになればうまくいく。

真夜中の観覧車

宇宙一きれいな冬の夜空と海面の静寂が合わさった時、その観覧車は現れる。近くに行けば真上を見上げるほどの大きさで、一晩かけて一周する。真夜中にしか動かない、大きな大きな観覧車。それにあなたと二人で乗ろう。一晩かけて、一生分の話をしよう。

ゆっくりと、ゆっくりと、ゴンドラは上ってゆく。「ねえそういえばさ、あの喫茶店に行きたいって言ってたよね」「あなただって、あの映画が観たいって言ってたわよ」「じゃあ、今度映画を観終わったあとその喫茶店にでも行こうか」。これは、近い未来の話。「ねえあの時の旅行でさ、行きたい場所が違ってちょっと喧嘩になったよね」「あったなあそんなこと。あの時はごめんね」「いいのよ今さら。そんなことより、あなたは初詣で何を願っていたの?」これは、少し過去の話。「これから僕たち、どうなるんだろうね」「私たち、ずっと二人でいられるのかな」「もういっそのこと、このまま月まで連れてってくれたらいいのに」

そうして二人で、二人だけで、どこか遠くに行こう。

「そしたら嫌でもふたり一緒にいられるよ」「嫌になることなんて、きっとないわよ」「きっとない、か」

あなたが僕に言ってくれたことが全部嘘にならないように、僕があなたに言ったことも全部嘘にならないように、観覧車よ、どうか終わらないでください。円にはもともと始まりも終わりもない。僕ら二人も、別々の直線を辿ってきたわけではなく、もともと同じ円周上にいる別々の点が、ある瞬間重なって出逢ったのだと、そう信じて止まなかった。

ゆっくりと、ゆっくりと、ゴンドラは上り続ける。僕たちは沈黙の中、肩を寄せあって座っている。世界が動いている限り、今の僕たちは動いていないことになる。動かなくちゃいけない、という得体の知れない圧力がまた襲いかかる。でもこの観覧車に乗っている限り、僕たちは動かなくても許される。だから一生乗っていたかった。この微睡みの中で永遠の快楽を謳歌したかった。

ゴンドラが頂上にきて最も月に近づいた時、僕たち二人はキスをした。重力が弱くなってあなたと二人で軽くなった。世界で僕らだけが軽くなっていた。

「この観覧車を降りたあと、あなたはどうするの?」と彼女が訊いた。

「動かなくちゃ。僕もあなたも、動かなくちゃいけない。世界が動いている限り、僕らも動かないと。置いてけぼりにされてしまう」

「いいじゃない、置いてけぼりにされても。世界の時間の流れと、私たちの時間の流れは一緒じゃないんだよ。私たちだけ置いてけぼりにされて、私たちだけの世界を創りましょう」

水平線の夜が少しづつ透明になって、ゴンドラはゆっくりと地面に近づく。海面の暗闇は薄くなっていく。さざ波が朝焼けを乱反射させて宝石のように光り輝く。僕の涙が一粒、彼女の掌に落ちた。彼女の綺麗な声が聞こえた。

「あなたがこの後どうしようとあなたの自由だけれど、今晩また、ここで待ち合わせしましょう。そうしてまた、真夜中の観覧車に乗りましょう。では、また今夜」

終点に着いて僕らは観覧車を降りた。観覧車は魔法のように消えていった。冬の澄んだ朝陽を浴びながら彼女と別れた。それから僕は、海を眺めながらひたすら夜を待った。

締めつけるような寒さの中、僕は何を思いリュックを背負って歩いているのだろう。

2021年も今日で最後だ。毎年この日、人々はその1年のことを振り返る。変わったことと変わらないこと。新しく出会った人と別れた人。なぜ人は今日という日に過去1年間を振り返るのだろう。昔から僕にとって、人というのはブラックホールのように何も知り得ない存在だった。

そういう僕も毎年この日になると思うことがある。来年は誰と何をして年を越しているんだろう、と。毎年そう思いながら、毎年特に何かをしているというわけでもなく、家にいていつの間にか年を越しているような気がする。来年の大晦日に、自分が生きているという保証なんかどこにもないくせに、僕は何か淡い光のようなものを信じてまた今日も1年後に思いを馳せるのだろう。

電車に乗って座っている。ふと視野に、つないだ手とスーツケース2つ。顔を上げると、女性が男性の肩に寄りかかって眠っている。その奥の車窓から見える東京の色。冬の空は、高くて広い。僕の居場所は、この空のどこにあるんだろう。

おわりのはじまり

一年が終わりに近づくにつれ、無性に人に会いたくなる。テレビ番組も街中も年末モードで賑やかになっているせいだろうか。街の灯りひとつに、ひとつの幸せがあることを最も感じる時期だからだろうか。それとも、今年も独りのまま終わらせたくないからだろうか。友人たちが皆実家や旅先で年を越すなか、結局僕は今年も実家には帰らず、スーパーで安くなっていた惣菜を貪るばかりだった。

あの人は今、どこで何をしているんだろう。

人を傷つけたくないから、傷つきたくないから、ずっと一人で生きていたいと言っていた。僕も同じだった。人を本気で好きになった時の、あの地獄のような苦しみをもう二度と味わいたくなかった。そんなことなら人を本気で好きになるあの感覚自体無くしてしまえばいいと、そう誓った日から、なぜか、僕の心はずっと何かを探していた。

拍子木を打つ音と火の用心の掛け声が外から聞こえてくる。

たぶん、僕らが求めているのは、イベントを一緒に過ごしてくれる恋人や友人ではなく、もっと、自分のことを一番よく知っている自分自身みたいな、時には見えなくなるけど確実にそばにいてくれる影のような、そんな存在なんだろう。それが具体的には何なのか、未だに分からない。

透明なお皿を洗っていると、お皿に溜まった水に光が反射して宝石のようにキラキラすることがある。それが綺麗で、最近はそのお皿ばかり使って洗っている。ふと気づいた。僕らはまだ、この透明なお皿に水を入れてないのかもしれない、と。

季譚

四季は、それぞれ違った匂いがする。そのどれもが好きで、季節の移り変わりにふと風の匂いが変わったのに気づくと、毎年新鮮で凄く嬉しい気持ちになる。そしてその度に、どこか遠くを見つめるあなたの横顔を思い出す。

春の包み込まれるような暖かさとぬるい陽射しの中で、お花見に行こう。桜の色と匂いが街を彩って生命が息づくあの気配を感じよう。夏のギラギラした太陽と青空の下、蒸し返るような草の匂いに囲まれてかき氷を食べよう。夜には屋台の焼きそばでも食べながら、誰もいない穴場で花火を見上げるんだ。ちゃんと虫除けをしてね。秋には不意に香る金木犀を感じながら、海に行こう。夏の人々を楽しませて少し落ち着いた海には、サーファーの姿がちらほら見える。ひとけのない砂浜に座ってそれらをぼんやりと眺めるんだ。冬にはイルミネーションで輝く都会に買い物へ出かけよう。でっかいアウトレットをまわったあとは手を繋いで静かに光の中を歩くんだ。ちゃんと四季を過ごしたいんだ、あなたと。だからまだ、行かないでください。せめて、1周でも良いので、私と春夏秋冬を過ごしてください。

でもあなたはもう、あなたがずっと見つめていた遠くの場所へ行ってしまったみたいだ。